鹿児島県霧島市から少し離れてさつま町と霧島横川町山ヶ野にまたがる所に、金を発掘する「山ヶ野金山」がありました。
1640年に金山が発見されてからは、佐渡と並んで日本を代表する金山と言われたようです。
そして、昭和になり人口が流出してからは金鉱跡は草や雑木に埋もれていたという話ですが、近年では、地域の人たちにより史跡の発掘や保存がなされてきたといいます。
最近では、金鉱跡の修復作業もすすめられて、奉行所跡の石垣なども竹囲いや屋根門などがつくられたということがあります。
奉行所の山先役宅跡は、昔の庄屋のように村の人たちと役人との仲を取り次いだ役であった、といわれています。
周りには、後座所といって、島津藩主が来山したところで、明治までは、立派な正門と黒塗りの西門があったところとして知られています。
また、この下の方には、御座下といって、商店が軒を並べて賑わった場所があります。
「山ヶ野ふれあい館」に行くと当時の写真などが残っているので、当時の様子などをよく知ることができます。
集落のあちらこちらの分岐点には、標識がたっていて道が解りやすくなっているようです。
また、当時としては、門司と長崎に次いで遊郭などもつくられた、というほどの賑わいぶりであったといいます。
従業員、当時の働き手には農業を禁止されていた、ということもあって大きな米蔵跡も残っていて、採金をして役所で米と交換してもらっていたようです。
ここには、ひっきりなしに馬で米が運ばれていたというくらいで、多くの蔵が並んでいたといわれます。
金の採掘には、フランス人の鉱山技師も招かれたということで、流れる川を見て金鉱技師が、「金は、みんな川に流れている」といったそうです。
フランス人のポール・オジェは蒸気式タービンによる搗鉱(とうこう)などを進めていたのです。
採掘後のかす泥は、川向に山のように積まれていましたが、整理されて今では田んぼになっているといいます。
山ヶ野金山地区の屋敷や家並みは、山の斜面にひしめくように住居があったといわれています。
これは、限られた地域に多くの家が立ち並んでいたということがあります。
見事な石垣がいまでもその名残を伝えています。
金を取り出すためにひき臼などを使ったりしていた道具類も残っていて、山ヶ野の貴重な文化財としても保管されているのですね。
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